第二章 機動師団 1938 - 1940 1938年、パレスチナ暴動は沈静化に向かいつつある一方で、枢軸国との開戦が迫っていることを予感したイギリスは、同地域の駐留軍を段階的に増強していく方針を採った。最初に行ったのは後に機動師団となる機動部隊の創設で、これが第7機甲師団の事実上の前身部隊となった。部隊の任務は、イタリア軍の侵攻に対してエジプト−リビア間の「国境線」をパトロールすることだった。 以下、ウェブサイト The History of the British 7th Armoured Division "The Desert Rats" より引用: ・・・この部隊は、第7、第8、第11の3個軽騎兵連隊と、第1戦車連隊(Royal Tank Regiment; RTR)からなるカイロ騎兵旅団で編成された。支援部隊は、第3騎馬砲兵連隊(Royal Horse Artillery; RHA)および、師団直轄部隊として陸軍補給軍団(Royal Army Service Corps; RASC)の1個中隊と野戦救急車1部隊だった。師団の中核部隊の編成は・・・【下表参照】 ・・・1938年10月、同部隊に王立ライフル軍団(King's Royal Rifle Corps; KRRC)第1大隊が歩兵部隊として加わった。この「機動部隊(Mobile Force)」はカイロでは「非機動部隊(Immobile Force)」と呼ばれていた。しかし幸運にも部隊創設直後の1938年9月27日、パーシー・ホバート少将(後に第79機甲師団“Funnies”を指揮)が指揮官に着任し、今度は機動師団と呼ばれることになった。彼は、異なる部隊同士が常に効率的に協調できるようにするために、厳しく効果的な訓練を開始した。 第6戦車連隊の到着に伴って、同師団は、軽機甲旅団、重機甲旅団(といっても軽戦車と少数のA9巡航戦車しか装備していなかったが)および中核集団の3個旅団に再編された【下表参照】。中核集団(Pivot Group)は、戦車部隊に不可欠な砲兵・歩兵支援を提供するために存在し、後に支援集団(Support Group)と改称された。 1938年から39年の冬の間に機動師団はカイロで生まれ変わり、1939年5月、ホバート少将の考えを実行に移すために西部砂漠へ移動した。少将は、部下の兵士全員が広漠とした西部砂漠で生活できるほど砂漠の環境に慣れ、戦い、勝利できるようにするつもりだった。第1戦車連隊は1936年から砂漠に駐屯していたため、彼らはすでに砂漠のエキスパートだったが、英伊両軍の中で最も歴戦の部隊といえば、疑いなく第11(アルバート公立)軽騎兵連隊、通称「チェリー・ピッカーズ(The Cherry Pickers)」だった。砂漠に関する知識やナビゲーション技術の習得、車両への防砂フィルターの装備など、装備と兵士を砂漠戦用に適応させるには時間を要した。 1939年9月3日の対独開戦と同時に、機動師団はエジプトーリビア国境に移動し陣地を構築した。イタリアは明らかにドイツ側に立っての参戦には積極的ではなかったので、演習が再開された。しかし、新任司令官のヘンリー・ウィルソン卿と仲違いしたホバート少将を陸軍省が解任したことが、同師団にとっての最初の打撃となった。ホバート少将の出立時には全将兵が声援を挙げて見送った。その後の彼は、ウィンストン・チャーチルに再びその才能を見出されるまで、ホームガード(訳注:英本土防衛を任務とする市民軍)の伍長として祖国に奉仕し続けた。その後、ホバート少将は第11機甲師団と第79機甲師団を創設することになる。 1939年12月、マイケル・クレイ少将が指揮官となり、部隊の訓練と新装備の更新を冬の間中実施した。この期間に3つの旅団名称が変更された。軽機甲旅団は第7機甲旅団に、重機甲旅団は第4機甲旅団に、中核集団は支援集団となり、支援集団には新たにライフル旅団第2大隊が加わった・・・ 1940年2月16日、機動師団は第7機甲師団となり、これとほぼ同時に、かの有名なトビネズミの師団マークが登場した・・・ 1940年4月、イタリア軍がサッローム(Sollum)付近の国境に部隊を移動させていることが判明したため、月末には同師団の配備が始まった。第11軽騎兵連隊と支援集団はメルサ・マトルー(Mersa Matruh)付近に陣を構え、軽騎兵連隊はそこから西部砂漠の偵察に出動することができた。この間、第3騎馬砲兵連隊は2ポンド砲と37mmボフォース対戦車砲に装備転換しており、その4個砲兵中隊は対戦車任務を遂行することができた【下表参照】 1940年6月10日、イタリアが参戦した。この数ヶ月国境警備に当たっていた第11軽騎兵連隊の戦争が始まったのだ。