第三章 第7機甲師団 1940 開戦後まもなく、第11軽騎兵連隊(ジョン・クーム中佐指揮)は、イタリア軍主要陣地であるフォート・カプッツォとフォート・マッダレーナの間の砂漠地帯を制圧せよとの命令を受けた。彼らは、イタリア軍パトロール隊を待ち伏せし、輸送部隊を襲撃し、多数の捕虜を後送することで、まさしくこの命令を遂行した。この作戦の目的は、通信・補給線を妨害し、英軍に対する恐怖心を植え付けてイタリア軍を混乱させることであり、究極的には、イギリス西部砂漠軍が主導権を握ることにあった。 6月14日、オコナー将軍は敵中深くキレナイカに進出することを決定した。彼は、イタリア軍のフォート・マッダレーナの奪取に空軍(RAF)のブレニム爆撃機の支援を受けた第11軽騎兵旅団を派遣し、フォート・カプッツォの占領には、装甲車・戦車・砲兵・機械化歩兵からなる強力な部隊を送ることを決めた。オコナー将軍はこの作戦の実行部隊に J. "Blood" カンター准将率いる第4機甲旅団を指名し、作戦目標として分厚い壁に守られたフォート・カプッツォだけなく、そのすぐ北に位置する強力なシディ・アジズの駐屯地の攻略も含めた。 カンターは隷下最強部隊である第7軽騎兵旅団とともに、機械化された第1王立ライフル軍団の1個中隊、および第4騎馬砲兵連隊の1個中隊をフォート・カプッツォの攻略に充てた。しかし、空軍の不正確かつ簡単な爆撃の後、要塞を守るイタリア軍火砲と機関銃が英軍戦車と少しの間激戦を繰り広げ、抵抗が収まるとまもなく白旗が掲げられた。だが次の戦いはもっと凄惨になるはずだった。 以下、ウェブサイト The History of the British 7th Armoured Division "The Desert Rats" より引用: ********************************************************************** 2日後の6月16日、西部砂漠において初の戦車戦が発生した。それは、第11軽騎兵連隊C中隊がフォート・カプッツォに向かうイタリア軍増援の2個縦隊に遭遇した際のことだった。イタリア軍の先頭縦隊は12両のL-3/33 豆戦車と30両の補給トラック隊で構成されており、後続縦隊は17両のL-3/33 豆戦車と300名の歩兵からなっていた。 第11軽騎兵連隊は再集結するとともに、第3騎馬砲兵連隊の対戦車砲部隊が援護に向かった。その間、2両の装甲車が敵縦隊の一つを攻撃し、2両のL3豆戦車を破壊、ロールス・ロイス装甲車1両が損傷を受けた。まもなく、他のチェリーピッカーズ(訳注:第11軽騎兵連隊の愛称)も到着し、さらに1両のL3豆戦車を破壊した。 その後、クーム中佐(第11軽騎兵連隊長)は総攻撃に備えて、第11軽騎兵連隊の利用可能な部隊(B中隊と司令部中隊)に加えて、8両のA9巡航戦車と4両のMk.VI軽戦車からなる第7軽騎兵連隊の1個混成中隊と、第3騎馬砲兵連隊の2ポンド牽引対戦車砲1個中隊を集結させた。この後の戦闘はギルバの戦いとして知られることになる。 この時点で、アヴァンツォ大佐率いるイタリア軍混成部隊は、26両のL3豆戦車(大隊司令部付の1個小隊と第IX軽戦車大隊第3中隊)、300名の歩兵(第1リビア歩兵師団)、リビア第IV砲兵集団第17中隊の14ポンド(77/28)野砲4門に輸送トラックという編成で、これらの部隊はワーテルロー式の"方陣"隊形を組んでいた。 この方陣は四隅に野砲1門ずつを配置し、歩兵は側面に、両翼を各12両の戦車が警戒するというものだった。イタリア軍戦車は砲兵・歩兵の支援のないまま突撃したが、英軍戦車に撃退された。砲兵・歩兵の支援を受けない軽戦車だけの独立行動では、英軍の諸兵科連合部隊には通じなかったのだ。勇敢に突撃したイタリア軍戦車はすぐに破壊されるか、行動不能に陥った。 A9巡航戦車がイタリア軍の方陣に向けて前進する間に、騎馬砲兵連隊の対戦車部隊は脆弱なイタリア軍トラックとむき出しの歩兵に対して右翼から射撃を開始した。巡航戦車が方陣に接近すると直ちに、イタリア軍砲兵が英軍装甲車両に射撃を開始した。イタリア軍砲兵隊には徹鋼弾はなく榴弾しか持っていなかったが、それでも英軍装甲車両に損害を与えることができた。 イタリア軍の諸兵科連合部隊に関する戦闘教義には明らかに違反する編成だったが、どちらのイタリア軍縦隊も対戦車砲を保有していなかった。その後の戦闘は、イタリア軍砲兵と英軍装甲部隊が方陣の四隅で対決するという展開になったが、むき出しになったイタリア軍砲兵はすぐに降伏し歩兵は潰走した。敵戦車と遭遇したイタリア軍砲兵に勇気や技術が欠けていたわけではなく、彼らには徹鋼弾が欠けていたに過ぎなかった。 この戦闘で、第11軽騎兵連隊はさらに8両、第7軽騎兵連隊は9両のL3豆戦車を破壊した。4門の野砲は全て破壊され、100名を越す捕虜を得た。つまりこの戦闘で、戦車2個中隊と歩兵1個大隊が丸ごと壊滅したのだった。 第11軽騎兵連隊はさらに、イタリア第10軍の工兵司令官ディ・コルポ・ラストルッチ将軍とその幕僚を捕虜にし、ランチャ製の将校専用車、将軍の2人の女友達、さらにバルディア防衛網を描いた貴重な作戦地図も入手したのだった。 ********************************************************************** 1940年8月下旬、ムッソリーニは事態を進展できないアフリカ総司令官グラツィアーニ元帥に苛立っていた。元帥がムッソリーニの望んだ作戦の延期を再要請すると、ドゥーチェは元帥に対して、9月9日までに進軍を開始するか、さもなければ解任すると通告した。 以下、Beda Fomm: The Classic Victory より引用: ********************************************************************** 9月8日、ついに元帥は翌日に進撃を開始することを仕方なく決定したが、自動車化輸送部隊の不足によって作戦計画は大幅に変更されていた。砂漠を迂回する案はキャンセルせざるをえず、新たにベルゴゾーリ将軍指揮の第XXIII軍団の先鋒になったリビア師団は海岸よりに配置換えされ、マレッティ集団は単に側面援護する役になった。・・・ ・・・新たな命令は深刻な混乱をもたらした。イタリア空軍による国境全域およびブクブク地方への先制攻撃の間、フィアットとグラディエーターによる突発的な空戦が始まってしまい、英空軍によるトブルクその他イタリア軍後方の重要拠点に対する爆撃もちょうど再開されたところだった。英軍パイロットにはどこからでもサッロームに向かって移動するイタリア軍地上部隊の砂煙がはっきりと見えたが、マレッティ集団を悩ませていたエンジンのオーバーヒートとナビゲーションの根本的なミスには気づかなかった。 マレッティ集団は事前集結地点のシディ・オマールに向かう際に砂漠で迷子になってしまったのだ。このせいで、イタリアのラジオが全世界に向け放送しイギリス軍情報部も知っていた主攻撃を、予定通り開始できなかった。 9月10日、それまで重要なものは何も発見できなかった第11軽騎兵連隊の装甲車部隊は、執拗かつ時に効果的なよく組織された空襲に悩まさた。その後、蛇行を続けるマレッティ集団と、イタリア軍本隊がじわじわと集結している兆候を発見した。しかし、濃い霧がイタリア軍を包んた。そして霧が晴れると、自分たちが眼前を覆いつくす敵航空機に加えて、恐るべき数の戦車と砲の的になっていることに気づいた。 しかし、孤立してサッロームに駐屯していた第3コールドストリーム近衛連隊の小隊が行動を開始したのは13日のことだった。平坦な地平線に朝日が昇り、密集して整列するイタリア軍戦車・砲・トラックの姿が顕わになると、この小隊は自分たちが全第1リビア師団の攻撃目標になっていることに気づいて喜んだ。これを目撃した誰かがこう言ったという。「・・・まるでオールダーショットのロングバレーでやる誕生パーティーみたいだ」(訳注:Aldershot は英軍発祥の基地の街。Long Valley は同市にある砂漠地帯。英軍はこの砂漠に大部隊を整列させて閲兵することがあった)。この高地にあった英軍外哨は、いよいよ一大砲爆撃に晒された。もちろん対抗手段などなかった。すでに英軍部隊はハルファヤ峠に撤退しており、道路爆破と地雷敷設の仕上げに忙殺されていた。 しかし、この猛砲撃の砲声は、地平線の向こう側のぎりぎり見えない地点にいるわずかなイギリス軍援護部隊からの攻撃に悩まされつつあったイタリア兵の士気を鼓舞した。次第に集結し、4個師団規模に増強されたイタリア軍本隊は峠に入り、あちこちに敷設された地雷で損害を出しながら困難な行軍を開始した。点在する破壊・放棄車両は、少し前までそこに英軍がいたことを証明していたが、実際にイギリス兵を目撃したり捕虜にすることは皆無だった。 オコナー将軍の計画は実に単純なものだった。わずかな援護部隊をメルサ・マトルー後方まで退却させたら、強力な歩兵部隊で同市に攻撃をかける一方、第7機甲師団は砂漠側面の急斜面を利用して反攻を開始するというものだった。"Strafer"・ゴット中佐率いる支援集団で編成された援護部隊は、砂漠側の側面に第3コールドストリーム近衛連隊、海側には自由フランス軍の自動車化海兵隊を配し、その目的は、本格的な交戦は避けつつ、実際より大規模な部隊が存在するという印象をイタリア軍に与え続けることだった。この作戦はまもなく功を奏し、実際には戦車と装甲車が各1個中隊しかない全能なるゴットの「大規模なイギリス軍装甲部隊」に対して、グラツィアーニは憂慮し始めた。 段階的な撤退作戦は完了し、イタリア軍に充分な混乱をもたらした援護部隊も、包囲されることなく撤退した。9月16日にただ一度だけ、アラム・エル・ダブ付近の道路から内陸部に数マイル突出した15両のイタリア軍戦車によって、英軍後衛部隊が遮断されそうになったことがあった。この時、英軍砲兵はちょうど弾薬不足に陥っていたが、無線で連絡を受けた第11軽騎兵連隊が現場に駆けつけ、第3コールドストリーム近衛連隊は窮地を脱することができた。その夜、ゴット中佐の支援集団の残余はシディ・バラーニを通過し、不眠不休でマクティラも通過してマトルーに向かった。後を引き継いだ第11軽騎兵連隊は、翌日もイタリア軍は引き続き前進すると予測して、事態の推移を監視していた。 しかし、すでにイギリス軍を追い詰めたと判断したグラツィアーニは、あるいは本当に彼にはそう見えたのかもしれないが、当初の目的も大胆さも失っていた。燃料・弾薬とも不足した戦車部隊と輸送部隊は惨めな状態にあり、行軍を続けてきた歩兵部隊は消耗しきっていた。戦死者120名、戦傷者410名と損害はまだ軽微だったが、いまやシディ・バラーニは、次なる跳躍点であるマトルーへの前哨基地として役立つに違いないと思われたのだ。しかし跳躍のタイミングを決めるのは、物資の大量投入と、グラツィアーニ自身の確固たる意思の力にかかっているはずだった。そこでこのプロガンダを得意とする人物は、当面の間は局地的な前進で勝利を拡大できると考えた。こうして「勝利者」は、長期滞在用の塹壕を掘って身を落ち着かせることになった。これはやがて事態を悪化させることに繋がる。 ********************************************************************** 第11軽騎兵連隊と第7機甲師団の支援集団に包囲されたイタリア軍は、第4騎馬砲兵連隊長"Jock"・キャンベル中佐が編成した装甲車・砲兵・歩兵からなる臨時編成部隊の断続的な攻撃を受けた。この「ジョック部隊」は、9月から12月までの間、多大な効果を上げた急襲作戦を行うことになる。この時期の一般的なイギリス兵にとって、この急襲作戦に参加することはつまり、守備隊員としての退屈な日常から抜け出すチャンスだった。同時に、精鋭とされている部隊に勧誘されることは、語るに値する大きな名誉であり、その話は傾聴に値するものでもあった。そして実際、カイロの盛り場には部隊員の話に耳を傾ける人々が無数に存在したが、その多くはイギリスの敵対者だった。やがて、イギリス軍の作戦はイタリア側に漏れるようになっていく。 以下、Beda Fomm: The Classic Victory より引用: ********************************************************************** 10月23日、敵の反応を窺うための小規模な攻撃に終始してきたイギリス軍は、第1キャメロン・ハイランダー連隊の歩兵部隊と第8軽騎兵連隊の戦車部隊が、ゴット支援集団の指揮下で、夜陰に乗じてマクティラのイタリア軍駐屯地に接近し襲撃することになった。しかしエジプトでは、ことにカイロでは、イタリア軍の肝いりによる反イギリス活動が激化し、正確な情報と欺瞞情報が結婚式のシャンパンのごとく混在してあふれかえっていた。襲撃の三日前にはすでに、襲撃計画が人々の口の端に上っていた。事実、イタリア軍はイギリス軍より正確な情報を得ていたようだ。攻撃側のイギリス軍は、たった一枚の航空写真と、駐屯地には"1個大隊あるいは1個旅団規模"の敵 −どちらにしても厄介な敵には違いない − が存在するといった単なる推測をもとに作戦を決定したに過ぎず、実際には戦車部隊を伴った第1リビア師団全軍が同駐屯地に存在したのだ。 1時間にわたる砲撃によって奇襲の望みは完全に消滅し、ようやく前進を開始した英軍歩兵は猛射撃を浴びることになった。もはや速やかな撤退は避けられなかった。払暁、20両のイタリア軍戦車の攻撃を受けたハイランダー連隊の兵達の多くは、軽騎兵連隊の戦車内に逃げ場を求めた。"ジョック部隊"ですし詰めになった戦車で戦う軽騎兵連隊にとって、この戦いはいつもより倍も困難なものになってしまった。 ********************************************************************** マクティラの失敗の後、オコナー将軍はセキュリティの強化を命じた。在エジプトのイギリス軍は数の上でも劣勢で、敵に裏をかかれることなど許されなかった。奇襲の要素は、絶対無駄にしてはならない重要な武器の一つだったのだ。この時期には、西部砂漠部隊の増強と再編成も実施された。ほぼ毎日のように新たな戦車や車両が到着し、急ピッチで「砂漠戦仕様」に仕立てられて前線に送られた。 以下、The History of the British 7th Armoured Division “The Desert Rats” website より引用: ********************************************************************** この時期、イラクのパイプライン警備任務を終えた空軍第2装甲車中隊のロールス・ロイス装甲車10両が到着し、第11軽騎兵連隊の"D"中隊として編成された。西部砂漠部隊も増強され続け、1940年9月24日にはポート・サイードに到着した部隊に加えて、3個機甲連隊が新たに編成された。この新編連隊は、巡航戦車(主にA13だったが、A9とA10も存在した)を装備した第2戦車連隊と、48両のマチルダ戦車を装備した第7戦車連隊、さらに未だにMk.VI軽戦車しか装備していない第3軽騎兵連隊だった。第7戦車連隊の装備するマチルダ戦車は、中東への初上陸となった。10月には、第4機甲旅団に第2戦車連隊が、第7機甲旅団には第3軽騎兵連隊が編入された。 師団長オムーア・クレイ少将は、第2戦車連隊と第3戦車連隊のB中隊を互いに入れ替えることを決定した。これは、どの戦車連隊も最低一つは巡航戦車中隊を保有することを意図したものだった【下表参照】。この間に、第7戦車連隊は彼らが支援することになるさまざまな歩兵旅団と協同で訓練を開始していた。 ウェーヴェル将軍は、重装甲のマチルダ戦車を使って、シディ・バラーニ、ソファフィ、ブクブクの塩田を攻撃することをオコナー将軍に命じた。しかしイタリア軍も、この三ヶ月間遊んでいたわけではなかった。いまやシディ・バラーニは、外周を取り囲む何重もの要塞化された駐屯地で守られていたのだ。このうち3つは、シディ・バラーニ南方に位置するニベイワ、東ツマール、西ツマールにあり、歩兵・戦車・重火砲で守られていた。シディ・バラーニ内外には75,000人の兵員、約120両の戦車と200門の砲が配置されていると推定された。対するオコナー将軍は第7機甲師団と第4インド師団を率いていた。英軍戦力は、歩兵25,000名と合計275両の軽・巡航・マチルダ戦車だった。 作戦は、第7機甲師団が第4インド師団と第16歩兵旅団を先導して、ソファフィとニベイワ駐屯地の間にあり20マイルの広さを持つエンバ地峡を通って西へ進み、シディ・バラーニと3つの駐屯地をイタリア軍主力から遮断する。一方、第4インド連隊とマチルダを装備する第7戦車連隊は駐屯地と町を蹂躙しつつ北上するというものだった。この攻撃演習は慎重に11月一杯繰り返され、12月8日の夜、進撃(コンパス作戦)が始まった。 ********************************************************************** 以下、Beda Fomm: The Classic Victory より引用: ********************************************************************** ・・・1940年12月9日払暁、攻撃部隊は順調に北上を続けていた。第7機甲師団の第4機甲旅団は、第11軽騎兵連隊の装甲車部隊の後を追って西側面を驀進していた。第7機甲旅団と支援集団はエンバ地峡を確保し、ラビアおよびソファフィ駐屯地を遮断していた。一列縦隊でマチルダ部隊に後続してニベイワに向かっていた第4インド師団と行動を共にする3個旅団は、砲の前車を外して射撃準備を完了していた。 その頃、第7軽騎兵連隊の軽戦車部隊を伴うセルビー部隊の歩兵は、イタリア空軍を欺瞞するためにマトルー周辺に囮戦車の「1個旅団」を作り上げ、南部と東部からマクティラへの進入路に接近していた。 午前9時までには、第11軽騎兵連隊の一部隊がシディ・バラーニの西8マイルの地点にある海岸道路に潜入し、イタリア軍輸送部隊の車列を待ち伏せしていた。彼らの後方を前進していた第7軽騎兵連隊は、ブクブク南東のワジを守っていたイタリア軍第64師団と遭遇していた。ここでは、午前中の間、陣地にこもるイタリア軍歩兵と戦車部隊との乱戦が続いたが、この戦いは、都会からきたイタリア軍歩兵はあっさり降伏しやすいことを確認したに過ぎなかった。対するイギリス兵は頑強かつ驚くほど的確に戦ったのだ。ほとんどの主要道路に繋がる小道は確保され、電話線とパイプラインは遮断された。こうして、シディ・バラーニはほんの数時間であっさりと、そして完全に孤立したのだった。 ********************************************************************** ニベイワ、東ツマール、中ツマール、西ツマールの駐屯地は、エンバ地峡とマクティラの間に建設されており、地雷や有刺鉄線とともに陣地が要塞化され、歩兵・砲兵・戦車からなる強力な守備隊が守っていた。しかし、イタリア軍は入口にはわずかな地雷しか敷設しないことに決めていた。そしてイギリス軍はここを突いたのだ。 マチルダ戦車を擁する第7戦車連隊に下された命令は、ベレスフォード・ピアース准将率いる第4インド師団によるニベイワ攻略を先導して敵戦車を一掃し、その後、戦闘開始線から数百ヤードの地点で歩兵部隊が輸送車から降車する間、防衛側と交戦することだった。ニベイワ攻略後、戦車と砲兵が前進するとすぐに、各ツマール駐屯地も同様に対処することになっていた。 以下、Beda Fomm: The Classic Victory より引用: ********************************************************************** 12月9日の夜は砂漠に典型的な寒い夜だった。ニベイワに駐屯していた歴戦のマレッティ集団はずっと緊張状態を維持していた。夜になると動き出すイギリス軍偵察隊の存在にすでに慣れていた彼らは、通常行動の一環として警戒線を敷いていた。真夜中頃、東から発砲があった。このイギリス軍の周到な陽動行動に対し、イタリア軍は無人の砂漠に向けて4発の照明弾を続けざまに打ち上げた。 午前5時、二度目の陽動行動に続いて、イタリア軍は二度目の警戒態勢をとり、またしても誤報とわかった後、警戒態勢は解かれた。午前7時には朝食を取り終えた第4連隊第II大隊所属の戦車兵は、いつものように警戒線のすぐ外側に駐車していた23両のM11戦車に向かった。 ちょうどその時、第7機甲師団は砂塵を巻き上げながら海岸に向かっていた。そしてその15分後、ニベイワ駐屯地は何の前触れも無しに、数千ヤード離れた地点に陣取った72門の25ポンド砲による一斉砲撃を浴びた。同時に、イタリア軍にとっては未知の戦車の大集団が発砲しながら驀進してくるのが見えた。 夜間に起きたちょっとした混乱に関わらず、第7戦車連隊のマチルダは的確な時間と場所を選んで前進を開始したのだ。イタリア軍砲兵が射撃を開始した時には、先鋒中隊はすでに最寄の山頂と駐屯地を取り囲む対戦車障害との半ばまで前進していた。奇襲は完全に成功した。このおかげでマチルダ部隊は、障害物の背後に設置されていた機関銃陣地や砲兵ではなく、M11戦車を最初に沈黙させることが可能になったのだ。・・・ ・・・この攻撃によってイタリア軍火砲は全て破壊された。わずかに砲塔を故障させたことを除けば、その砲弾が命中してもマチルダに対してはほとんど無力だった。・・・ ・・・戦車の後には、キャメロン・ハイランダー連隊第2大隊と第6ラージプターナ連隊第1大隊のマシンガン・キャリアが射撃しながら前進した。その間、700ヤード後方では2個大隊の兵士がトラックから降車し、戦車部隊が逃した敵を一掃するために、隊列を整えて前進を開始した。 ********************************************************************** イギリス軍の戦車と歩兵は、塹壕や砲座を蹂躙し、混乱するイタリア軍の最中であらゆるものを破壊しながら駐屯地に殺到した。砲座についたイタリア兵は勇敢に抵抗し、その多くが砲を守りながら死んだ。しかし、もはや駐屯地の命運は明らかで、午前10時には抵抗は終息しつつあった。 指揮中枢も完全に破壊された。マレッティ将軍は指揮壕から姿を現した際に、戦車の車載機銃で撃ち倒された。1040時頃には全てが終わり、4000名以上の捕虜が捕らえられた。しかし第7戦車連隊の戦車兵に休息は許されなかった。ツマールの駐屯地群がまだ残っていたのだ。 以下、Beda Fomm: The Classic Victory より引用: ********************************************************************** 第4インド師団長ベレスフォード・ピアース准将は、すでにニベイワでの隷下の第11インド旅団の成功をすぐ近くから見ていた。彼は、第1パンジャーブ連隊第3大隊と第1フュージリア連隊からなる第5旅団に、ぎりぎりの期限である午前11時をもって西ツマール駐屯地に攻撃すべく北上せよと命じた。第5旅団は第7戦車連隊の予備中隊とともに移動を開始した。すでにニベイワ攻略任務を終えた砲兵隊と、マチルダを混成した2個部隊が後に続いた。 敵に与える心理的なダメージという点では、ニベイワとツマール攻撃の間隔はできるだけ短くするに越したことはなかったが、それはあまりに楽観的な要求でもあった。ニベイワでの2時間の戦闘の後、マチルダ部隊は不可欠な補給を行い、5マイル先の西ツマールへ向かった。しかし、すぐさま地雷原に踏み込んで7両を失い、この行軍は初っ端からつまずいた。 さらに駐屯地を出発した後でも、彼らはさらなる遅れの原因となってしまった。折からの強風で砂塵が巻き上げられ、視界が著しく低下した。このために、正確な攻撃位置に移動することが困難になったのだ。ばらばらだったイタリア空軍の攻撃はすでにまとまっていたが、この攻撃は、西ツマールを探して右往左往していた第7戦車連隊長イェーラム中佐が直面していたような問題は引き起こさなかった。 最終的には、歩兵と砲兵の準備は完了し、戦車部隊もとにかく近辺にいることを把握していたベレスフォード・ピアース准将が、1335時の攻撃開始を命じた。その頃イェーラム中佐は、自分が西ツマールへ向かっているのか東ツマールに向かっているのかさえ分からなかったが、地図上の西ツマールの位置は正確だと仮定すると、運を天に任せてしかるべき方角に移動することを決意した。そして戦車隊は、神の御慈悲によって運よく目的地に到達できたのだった。 実際、ツマールでは幸運の女神が明らかに微笑んでいた。ニベイワ戦とよく似た状況が再現されたのだ。駐屯地中心部への道筋をはっきりと把握した戦車隊は、頑強なイタリア軍砲兵との死闘を制した。しかし、第2リビア師団が寸土を争って頑強に抵抗したため、第5旅団の歩兵部隊は一歩も前進できなかった。そこに第1フュージリア連隊が駐屯地から150ヤードの距離までトラックで突っ込んできたのだ。連隊を運んできたのは、第4自動車中隊に所属するがむしゃらなニュージーランド出身の運転兵の一団だった。運転兵たちは時速30マイル(訳注:約時速50km)で砂漠を横断した後、自ら攻撃に参加するためにトラックを乗り捨てたのだ。 彼らは決して歓迎されたわけではなかったが、ライフルを借りると、「どうした!イギリス野郎どもめ!」と叫びながらイギリス兵を追い越して突撃していった。その途端、フュージリア連隊が小火器の一斉射撃を開始した。ニベイワでの第11旅団とは違い、第5旅団はずっと予備部隊で実戦を経験してこなかったが、戦車隊は主に敵砲兵を相手にしていたし、リビア歩兵は実にしぶとかった。さらに掩蔽壕の中では、手榴弾と銃剣を使った接近戦が避けられなかった。こうして拠点を巡る歩兵同士の激闘は優に二時間は続いた。最後の戦闘は、第1パンジャーブ連隊第3大隊のシーク兵が、コンクリート製掩蔽壕から出てきた師団長ピスカトーリ将軍と30人の上級将校の降伏を受け入れて終結した。このイタリア軍将校は、全員が乗馬ブーツを履いていた。そのほかに、少なくとも2,000人の捕虜が集められ、捕虜の警備自体が問題になった。しかし、東ツマールの駐屯地はいまだ残されており、さらに遠くにはシディ・バラーニが不気味にそびえていた。戦いはまだまだ終わらなかったのだ。 ********************************************************************** 16両のマチルダ戦車が残されていたイェーラム中佐は、第6ラージプターナ連隊第4大隊の歩兵を加えて、5マイルの距離にある東ツマールを攻撃した。戦車とトラック乗車の歩兵部隊からなるイタリア軍の反攻を受けたが、イギリス軍は持ちこたえた。正確な砲撃で敵トラック多数を破壊し、400名程度の損害を与えた。しかし、マチルダ部隊とシーク兵は夜までに東ツマールを占領することができなかった。もはや第7戦車連隊は消耗しきっていたのだ。しかし、イタリア軍は崩壊寸前だった。イタリア第10軍全体が退却するのは時間の問題だった。 以下、The History of the British 7th Armoured Division “The Desert Rats” website より引用: ********************************************************************** イタリア軍の崩壊は劇的だった。インド師団がニベイワとツマールの駐屯地を素早く蹂躙している間、第7機甲師団は海岸道路を遮断した。シディ・バラーニ周辺のイタリア軍は、即座に全面撤退を開始した。・・・ 12月10日夜には、第7軽騎兵連隊がブクブクで退路を遮断して、5,000名以上の捕虜を取った。あまりに多くのイタリア兵が降伏したため、捕虜は数え切れないほどになっていた。最終的には、イタリア軍捕虜は20,000名にのぼり、イギリス軍の損失は700名程度だった。 ********************************************************************** イタリア第10軍を一掃するために万全の準備をしていた第4インド師団が戦線離脱を余儀なくされたことは、オコナー将軍にとってはショックな出来事だった。しかし、山岳戦に強い歴戦の部隊を希望するスーダン戦線にとって、第4インド師団はまさに欲していた部隊だった。このため第7機甲師団は、シディ・バラーニ一帯への攻撃を継続できる位置にいる唯一の戦力となった。そして彼らは実行したのだ。 以下、Beda Fomm: The Classic Victory より引用: ********************************************************************** 10日払暁、第16旅団は何もない砂漠で砂嵐に晒されながら、シディ・バラーニ西端への攻撃準備を整え、いまだ姿の見えない砲兵とマチルダ戦車部隊を待っていた。 ローマックス准将にとっては、視界の開けた砂漠で待機を続けるなど無謀な行為以外の何ものでもなかった。彼は、イタリア軍砲兵に晒されるリスクを犯しても、全面攻撃の精神で一斉に攻撃を開始した方がマシだと考えていた。しかし、攻撃の先鋒を務める第1アーガイル・アンド・サザーランド・ハイランダー大隊を輸送するトラック隊が、全速力で開けた砂漠を3.5マイル横断している時に、イタリア軍の砲列が射撃が開始したのだ。 砲弾がトラックに命中し、パニックになった兵士たちはトラックを飛び降りて手近な遮蔽物に殺到した。その直後、側面を移動していた第2レスターシャー大隊を襲った不運はややマシだった。阿鼻叫喚の中、多大な犠牲を払って交戦し、このおかげでイタリア軍の注意をそらすだけでなく、砂漠に釘付けにされた英兵の救出をすぐに開始することができた。砲声に向かって前進した10両のマチルダ隊は、第2クイーンズ大隊の予備歩兵大隊と合流し、左翼に向けて突破口を開き始めた。ほぼ同時に、英軍砲兵がイタリア軍砲兵への逆襲を開始した。 シディ・バラーニ陣地西端で砂塵の中の激しい戦いが始まった。砂嵐の余韻で視界が閉ざされていたため、すぐ隣で戦っている部隊の姿も見えなかった。アーガイル大隊がクイーンズ大隊と同士討ちをはじめかけたこともあった。しかし、マチルダ隊は着実にイタリア軍砲兵を沈黙させ、歩兵は徐々に敵陣地を制圧していった。歩兵戦を避けるためにマチルダ隊の指揮官に降伏するイタリア兵もいた。何とか味方を励まそうとしたイタリア空軍第5飛行中隊の航空機が、視界の無い地面すれすれを飛ぶこともあった。しかし正午過ぎ、防衛線南側を突破したレスターシャー大隊は、「まるで一斉攻撃を開始するかのように、恐ろしい数の人間が塹壕から姿を現した」のを目撃した。しかし彼らは両手を挙げ、ゆっくりと近づいてくる2,000名の黒シャツ隊だった。崩壊が始まったのだ。 ********************************************************************** さらに西側では、第7機甲師団の一部が海岸道路沿いでイタリア軍を遮断しようとしていた。ブクブク周辺の塩田の背後にある砂丘に展開したイタリア軍砲兵の頑強な抵抗に遭うと、第7機甲師団は砲兵陣地に突撃した。最終的には、第8軽騎兵連隊の側面攻撃で制圧に成功した。 以下、Beda Fomm: The Classic Victory より引用: ********************************************************************** ブクブクを超えると、多くの塩性湿地とイタリア軍が築いた砂丘が点在し、その間に道路が続いていた。しかし近くから偵察すると、イタリア軍師団砲兵はこの隘路を完全に射線下に置き、堅固な隠蔽陣地を築いていることがわかった。ここで、イギリス軍機甲連隊の中では最も経験の少ない第3軽騎兵連隊が、敵の抵抗にも関わらず接近を試みた。砲撃を避けてクネクネと蛇行したものの、塩田に突っ込んで動けなくなった。 塩田から抜け出そうともがくMk.VI軽戦車の一群は、すぐに燃え上がる残骸になった。厄介な地形を通って頑強な敵へ突撃しようとした無謀な試みの犠牲者だった。しかしイギリス軍は、今度はクーム中佐の指揮の元で、再び彼らの技量を示そうとした。25ポンド砲がイタリア軍砲兵と交戦している間に、第8軽騎兵連隊の巡航戦車中隊が、側面500ヤードの位置まで密かに移動して突撃準備に入った。 しかしイタリア兵はこの動きに気づくや否や、新たな脅威に向けて砲門を旋回した。もしも事態がバラクラバの戦い(訳注:イギリス騎兵が高台に位置するロシア砲兵隊に向けて突撃し、膨大な損害が出したクリミア戦争中の戦い)のようになれば、多くの戦車を失う可能性が充分にある危険な賭けだった。実際、瞬時に弾薬補給トラックを炎上させ、士気阻喪したイタリア軍が降伏していなければ、イギリス軍戦車隊は壊滅していたかもしれなかった。 ********************************************************************** 各地での敗北に耐えかねたイタリア第10軍は、サッロームに向けて全面撤退を開始した。第7機甲師団に与えられた命令は、敗走するイタリア軍を掃討し、サッロームへの逃走を阻止することだったが、彼らは夜間行軍を望まなかったために、この命令は実行できなかった。その結果、短期間とはいえベルゴンゾーリ軍は安全にサッロームに到達できた。 12月15日までにはイタリア軍はエジプトから一掃され、イギリス軍はそれ以上の前進を停止した。第6オーストラリア師団の到着を待ちながらバルディアを包囲していた師団には、多くの損害を出した兵員と戦車を交代させる必要が生じた。そして、第4機甲旅団がわずか10分足らずで奪取したシディ・オマールの戦いは、この年最後の戦闘となった。 以下、Beda Fomm: The Classic Victory より引用: ********************************************************************** この時点で、英軍に対する主要抵抗拠点は3箇所に絞られた。未知の要塞規模をもつ北西のトブルク、戦力は不定だが手ごわい守備隊のいるバルディア、そして第62師団の強力な分遣隊がいまだに持ちこたえているシディ・オマールだった。最初の標的になったのは、孤立陣地となったシディ・オマールだった。15日にバルディアのイタリア軍を封じ込めるために第7機甲旅団が派遣されたのに続き、16日には、第4機甲旅団がシディ・オマールに派遣された。 クレイ少将が第7機甲師団長に復帰したため、前任のカンター准将は第4機甲旅団長に戻り、シディ・オマール攻略は彼に託された。同地の防御体制は、予想通り東側が地雷原と鉄条網で囲まれ、それを砲兵が援護しているというもので、シディ・バラーニ周辺の駐屯地のものと大差なかった。しかし今回は、中央に"ボー・ジェスト"式の(訳注:映画「ボー・ジェスト」に出てくるような)白亜の要塞があった。イギリス軍の攻撃は、砲兵と戦車の損失を考慮して、歩兵の攻撃から始まった。25ポンド砲2個中隊の砲声が轟くと、それに応えるようにイタリア軍の全砲門も火を噴いた。そして、砲撃により巻き上がった砂塵に紛れて、南と西から第7軽騎兵連隊と第2戦車連隊が突撃した。 軽装甲の戦車部隊の生死を決めるのは、接近スピードだった。第2戦車連隊の先鋒中隊は劇的な登場で一気にカタをつけるべく、他の戦車隊が持ち場から機銃掃射で一帯を制圧している間に、要塞内へ突入することを決意した。顛末はあまりに劇的過ぎた。要塞の防壁に衝突した瞬間、その中隊長車の遊動輪が取れてしまい、敵の真っ只中に孤立してしまったのだ。それでも中隊長は砲塔から顔を出しピストルで交戦をはじめた。しかし、その直後に2両目の戦車が突入すると、全ての抵抗が終わった。あまりに突然の出来事に守備隊は降伏してしまったのだ。この時も、事態が急変すると士気を阻喪するイタリア兵の特徴が遺憾なく発揮されたのだった。 ********************************************************************** 事実上、この戦いでコンパス作戦の第一段階は終了した。両軍とも血にまみれ、補給は危機的であり、兵員も機械も休息と修理を必要としていた。散発的な交戦は発生したが、両軍ともに翌年の戦役継続に向けて力を貯めることに徹したのだ。