第一章 パレスチナ反乱 1936 - 1938 おかしな話だが、第7機甲師団の物語は、1930年台後半のパレスチナにいた第11軽騎兵連隊(11th Hussars Regiment)から始まる。 1936年、ヒトラーとスターリンの追放政策によって発生した大量のユダヤ人移民はパレスチナに移住し、ユダヤ人入植地は増大の一途をたどった。さらに、アラブの諸問題に介入を続けるヨーロッパに対してもアラブ人の不満は高まっていき、パレスチナ在住アラブ人の大半がイギリス統治に対して幻滅するようになった。こういったこと全てが、1936年4月のアラブ人によるユダヤ人バスの攻撃の原因となり、さらにこの攻撃は、その後大規模なパレスチナ蜂起にまで発展する一連の事件を引き起こすことになった。 アラブ諸政党の緩やかな連合体であるアラブ高等委員会(AHC)が設立され、ユダヤ移民の中止、ユダヤ人への土地販売の即時停止、アラブ人による国民政府の樹立という3つの基本的要求を受け入れさせるために、全国的なストライキに協力することを訴えた。この反乱でパレスチナ民衆を指揮したのが、エルサレムの大ムフティ(訳注:イスラムの法官)でもあったハッジ・アミン・アル=フセイニーだった。フセイニーはムフティとしての地位を利用し、アラブ保守派と結託しつつイギリス当局とも密接な関係を維持した。彼は同時に、自らの成功には不可欠と考えた枢軸諸国の協力をも取り付けようとしていた。 郊外で散発的に始まった武装蜂起はゆっくりと組織化されていった。しかし都市部での反乱の拡大は急激だった。アラブ人の攻撃は、イギリス軍パトロールの待伏せから、列車の爆破、学校への放火、市民殺害、石油パイプラインの破壊工作までさまざまだった。この「アラブの反乱」の"第一段階"は、1936年11月まで続いた。1936年7月、ロールス・ロイス装甲車を装備した第11軽騎兵連隊は、反乱鎮圧のためカイロからパレスチナに移動した。しかし、すでにこの時点で反乱はゲリラ戦の段階に発展していた。 1937年9月、ピール委員会(訳注:パレスチナ英国委員会)がパレスチナの隔離を勧告した直後にこの"第二段階"は始まった。この段階では英軍との武力衝突はますます熾烈になり、ユダヤ人集落への攻撃も実行された。20,000人に上る英軍兵士と充分な訓練と装備を持つ14,500人のハガナー(ユダヤ人民兵)が投入されたにも関わらず、パレスチナ暴動は3年以上も続いた。1939年3月に秩序が回復されるまでの間、アラブ人5000名以上、ユダヤ人400名以上、イギリス人200名以上が死亡した。