<おしらせ1>
またまた、いつの間にか掲示板がダウンしていたようですね。ログを見ると、およそ2年半ぶりの改修です。
この間、何度かメールでご要望があったようですが、この度ようやく重い腰を上げて掲示板を修復いたしました。
管理不行き届きで申し訳ありません。

<おしらせ2>
サイト管理を楽にするために体裁を変更しています。
本サイトのメインコンテンツであったSPWAWの解説記事は以下からアクセス可能です。
SPWAW解説記事一覧


<5分で調べたSPWAW界の近況>

びっくりしたことーその1「Depot リニューアル」
SPWAW界を長年牽引してきた世界最大のファンサイトSPWAW DEPOTが、昨年の4月に閉鎖、13年の歴史に幕を下ろしたようです。
と同時にDepotメンバーの一人 Falconさんが新たなサイトSPWAW DEPOTを立ち上げたようですね(笑)。
まあ、中心メンバーが入れ替わって、こじんまりした感はありますが、実質的にはリニューアルって感じですかね。
旧DEPOTの遺産は相続されているようで、今後ともがんばって欲しいところです。
https://www.tapatalk.com/groups/spwawdepot/

びっくりしたことーその2「砲撃要請画面ラグ解消」
マルチコアCPUが普及した頃でしょうか、ある程度以上のスペックのPCでは、砲撃要請画面で挙動がおかしくなる不具合がありましたね。
それが原因でSPWAWを離れた・・という方もおられたような記憶がありますが、どうやらこの不具合、ついに修正されたようです。
これもDEPOTメンバーのおかげみたいですね。Matrix Games 公認(というか黙認ですね)のもと 、本体ファイル MECH.EXE をいじることに成功したようです。
https://www.tapatalk.com/groups/spwawde ... -t277.html


というわけで、この機会にもう一度SPWAWをやってみようかな、と思われた方は次のリンクからダウンロードをどうぞ。
DEPOTで全てのファイルのホスティングも始めたようです。
https://www.tapatalk.com/groups/spwawde ... es-t6.html

【書籍】『私は魔境に生きた』

参考になる書籍・映画・ウェブサイトなどの紹介
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Nor
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【書籍】『私は魔境に生きた』

Post by Nor » 2009.Sep.18(Fri) 22:41

私は魔境に生きた - 終戦も知らずニューギニアの山奥で原始生活十年 2007 島田覚夫 光人社
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『その夜から再び、しばらく忘れていた日本勝敗論が盛んに議論され始めたが、結局、どちらとも意見は一致しなかった。いやともすれば敗戦に傾く意見を、何らかの希望を見出そうと、意識して意見を一致させなかったというのが私たちの偽らざる気持だった。』

<はじめに>

本書は著者が復員を果たした1年後の昭和31年に書かれた記録ですが、実際に出版されたのは30年後の昭和61年(ヒューマンドキュメント社)で、その後2007年になって戦記ファンにはおなじみの光人社NF文庫から文庫版がでました。タイトルの選定はともかく、えらいぞ光人社。

副題が全てを物語っていますが、内容は飛行場大隊の曹長として満州からニューギニアに送られた著者が、戦後10年間日本の敗戦を知らないまま3人の戦友と苦難の生活をしたという内容です。戦場に取り残された期間や戦闘体験の壮絶さという点ではもっと上をいく体験記があると思いますが、本書に綴られたジャングルでの詳細な生活記録は確かに驚きにあふれています。

そもそも飛行場大隊というのは本筋の戦闘部隊ではないので最前線で華々しく戦うことはありません。まして末期ニューギニアの日本軍といえば、本当の敵はオーストラリアでもアメリカでもなく苛酷な環境と病気と飢餓でした。連合軍に対しては戦闘部隊ですらほぼ逃げの一手。したがって本書でも戦闘描写は皆無で、連合軍の追撃を逃れながら密林地帯でいかにして命を保つかが最大の命題になります。

背表紙の売り文句には「椎名誠氏絶賛!」とある通り(これってイメージ的にどうよとも思うのですが)、いってみれば本書の読みどころは戦時の密林サバイバル記録で、全560ページのうち最初の100ページほどはいわゆる通常の戦記らしい記述ですが、その後は次第に戦記というよりも冒険記とか漂流記とかの趣が強くなり、果ては文化人類学者のフィールドワーク記録を読んでいるような気にさえなります(笑)。

しかし本当に戦時だったのは1年半ほどであり、その後の8年半は「戦時と思っていた」平時の記録なので、小野田さんの戦記にも通じる痛切な運命の皮肉を感じながら読むことになるでしょう。


<生還者の悲哀>

著者の所属する飛行場大隊はニューギニア西部ウエワクに上陸するものの、整備すべき満足な飛行機さえなく、東から連合軍の反攻がはじまって海岸地帯が一気に制圧されると、必然的に内陸部の密林地帯をとおってさらに西側に転進(退却)することになりました。ニューギニアの日本軍戦記は、この前人未到の密林地帯を通って西部へ退却する際の「進むも地獄・引くも地獄・留まるも地獄」という悲惨さを描いたものが多いのですが、著者の一行はある時点で「留まる地獄」を選択します。
『最後の策として敵陣に突入の手段もある。しかしこれだけの少人数で、しかも武器もなく、へとへとに弱り切った体で敵に突っ込んで、何の価値があるだろう、またみすみす望みのない行軍を続けて、自ら野に斃れるのも、これまた愚の骨頂である。結局ここまで考えた私たちは、現在の体に不当な行軍を強いるよりも、一時密林に敵を避けて体力の回復を図り、友軍再来を希望に再起奉公の日を待たんものと、ついにジャングル篭城の決意を固めるに至った。』
どうも肩に力が入りすぎたような言い回しですが、著者の部隊は非戦闘部隊であったこと、確固たる指揮系統はすでに失われていたこと、ニューギニア戦線からの生還率は15%程度だったこと、本書の執筆時期などなどを含めて考えると、こういう書き方になるのも納得できるかもしれません。そして、この部分に限らず著者一行の生死を決めるような重大な決断の記述からはほとんどこんな感じの、はっきりいえば「生還者のうしろめたさ」のようなものが見て取れるのが本書の特徴ともいえるでしょう。

おそらく、こういった「うしろめたさ」「罪悪感」「自責の念」というものは個人戦記を書く場合には必ずといってよいほどついてまわるのでしょうが、後世の読者はそうした気持を振り切って体験を公にしてくれたことに感謝することの方が多いでしょうし、むしろ数々の事情を考慮して「書かれなかった気持」について想いをめぐらせることこそ個人戦記を読むことの醍醐味だと思います。

ただ、批判や摩擦を避けようとするあまり定型句を多用して文章が堅苦しくなりすぎると読み手としては面白くありません。本書の著者は文章のプロではないことも影響していると思いますが、戦友が次々と斃れていく序盤ではややこのきらいがないでもありません。ただし、中盤からはそうした制約も完全に外れて自由闊達な文章になって俄然面白くなります。


<作り出す敗残兵>

「篭城」を決めた1944年6月時点の著者一行は17名。これだけの人数でジャングル生活をしようとしたのにはそれなりの目算がありました。日本軍の物資集積所が間近にあったのです。もちろん集積所自体は敵に押さえられているので敵の警戒を避けつつ忍び込んで食料を山中に運ぶのですが、敵も馬鹿ではありません。集積所の物資はまもなく焼き払われ、山中に潜む日本兵の掃討活動も活発化します。結果、集積所の食料で食いつなげたのは1年半程度で、この間に9名の戦友を失いました。

この時点ですでに戦争は終わっているのですが、そんなことは著者たちには知る由もありません。1945年5月に連合軍のパトロール部隊の襲撃を受けた著者たちは、それ以来敵だけでなく原住民をも警戒して、完全な隠遁生活を続けていたのです。まもなく食料が尽きることを覚悟した著者たちは、新たな自給体制を築くべく大きな一歩を踏み出すことを決意します。
『しかし一度死期を失った私たちに生への執着は強かった。日本軍人として虜囚の恥は受けられぬ。潔く自決すべきか。しかしそれも弾丸雨飛の緊迫した状況の下では容易なのだが、平静な今、私たちは軍人のベールを捨てた人間そのものの弱さをつくづくと感ぜられた。何としても生きたい。生き抜かなければいけない。自分のために、そして日本のためにも・・・こうなれば私たちが勝つか死の神が勝つか、あくまで頑張ろう。生きられる限り生き抜こう。
(中略)
「私たちの手で農園を拓こう。そして友軍再来の日まで頑張るんだ」
事ここに至って全員の意見は一致した。人間として生きて行くに今さら軍人の階級など要らぬ。この日から軍人としての階級を捨て、心から結束して所期の目的を完遂するよう堅く手を握って誓い合うのだった。』
というわけで、原住民さえ踏み込まない文字通り人跡未踏の密林地帯を開拓しようとする辺りからはどんどん戦記っぽさがなくなっていきます。依然として見えない敵兵の姿に怯えつつ過ごす生活ではありますが、実際の敵は病気と飢餓と環境です。とはいえこれは最も恐ろしい敵で、1945年10月に農園開拓を決意して1947年末までにさらに4名の戦友を病気で失いますが、戦闘が一切ないという意味ではなにやら無人島漂流記や荒野の開拓記を読んでいるような感じです。

また、在るものを消費し失っていくばかりの悲惨な敗残戦記とは違い、ここからはモノを生み出していく喜びの描写も多くなります。日光も射さない密林を徐々に切り拓き、原住民の農園から種や苗を盗み、植え付け、育てていく過程。試行錯誤によってジャングル生活Tipsともいえる数々の生活の知恵を会得していき、やがては生存のためだけではなく、生活を便利にする道具をも作り出していきます。物資集積所からかなり多様な物資を持ち出せたという利点はあるものの、著者たちの生活のありようは一般的な敗残兵の生活イメージとはかなりかけ離れたもので本当に驚かされます。

農園ではタピオカ・タバコ・甘藷・バナナ・パパイヤを育て、廃鋼からナイフ・かんな・秤・針金を作り、12x5メートルもの家を建て、蚊帳を作り、便所を作り、家具や食器を作り、完全に錆びついた小銃を使えるまでに復元して狩猟を開始し(それまで小銃は一挺もなかった)、獣脂でランプを作り、豚を飼い、ついには12ヘクタールにおよぶ農園を作りあげ、一時は生産過剰で農産物を捨ててしまわなければならないほどになるのです。

この発展の過程は「原始時代」「石器時代」「鉄器時代」という章で描かれており、そのタイトルからして著者の喜びが伝わってきます。そして「鉄器時代」ではふいご・やっとこ・炭焼き用の炭窯まで作って本格的な鍛冶技術をものにし、この技術が次の段階で彼らの運命を決定付けることにもなります。


<森の鍛冶屋として>

生活が安定し行動範囲を徐々に広げていた著者たちは、1951年になってついに原住民と遭遇してしまいます。農園に生活の基盤を置いていた彼らにはもはや逃亡するという選択肢はなく、うまくやれば味方につけることができるかもと考え、言葉も通じない状態で会談を持ち原住民と友好関係を築こうとします。
『後になって彼らが話したことであるが、この時与えたナイフが非常に役立っていた。すなわち彼らが村に帰って酋長に様子を報告すると、そのころ敵オランダの政策として日本人を匿うことは堅く禁じられていたので、敵に告げるべきか否かの二派に別れ、酋長は前者の意見だった。その時ナイフによって非常に好感を感じた彼らは、あくまで日本人の好意あることを力説して隠匿を主張した。結局、酋長もその説を信頼し、ある程度の危険を犯してまで私たちを隠す気になったのである。もし、この時密告されていれば、もっと早く日本に帰れたのだが・・・。いや心の準備の出来ていないこの時では撃ち合って死んでいたかもしれないかも・・・。』
この回想はかなり率直で、皮肉な運命を受け入れようとする最後の一文が痛々しいです。本当の皮肉はナイフをあげたことよりも、このときの「酋長」がオランダ行政府に直接パイプを持つような実力者ではなかったことです。そのような人物ならば当然オランダ当局の真意を知っているので、最終的にはそうなったように、著者たちを刺激しない穏便な方法で帰還の道筋をつけてくれた可能性が高かったと考えるのが妥当でしょう。まあしかし何が良かったのかは当事者しか判断できないし運命は受け入れるしかありません。

結果的に日本への帰還は3年延びることになったのですが、少なくとも著者たちの鍛治技術がその後の原住民との友好関係の基礎になったのは確かです。著者たちは農園の豊富な作物で原住民を「宣撫」し、鍛治技術をいかした鉄製品と不足品(新たな作物の種・どうしても生産できない塩・マッチなどの文明の利器)を交換することでますます交流を深め、しだいに4人の日本兵が営む「森の鍛冶屋」は原住民にとっても不可欠な存在になっていきます。

この辺りからはほとんど戦記っぽい記述はなくなり、中心テーマは原住民との交流になります(笑)。著者は原住民の生活様式・風俗・習慣・歴史などを詳細に書き上げます。交易し、現地語を習い、ともに食事や狩りし、互いの家に宿泊しあい、現地に適した生活法を習う中で見聞した原住民に関する記述は、必要に迫られてしぶしぶ原住民と交流をもった兵士というよりも、フィールドワークとして積極的に現地人にとけ込もうとする文化人類学者のようです。戦地の原住民に並々ならぬ共感を示した兵士といえば水木しげるが有名ですが、原住民の生活に関する記述の濃さでいえば本書の方が勝っているでしょう。


<帰還>

こうして著者たちは密林生活への適応性をますます高めて充実した生活(?)を送りますが、当然望郷の念を抱き我が身の将来を嘆くこともあります。密林の原住民とはいえ潜伏日本兵よりは外の世界とつながりがあり、彼らからもたらされた日本に関する情報は唯一の外界を知る手がかりです。しかし、本当に知らないんだかわざと言わないんだかわかりませんが、日本とアメリカは仲が良いとか天皇も大統領も健在だとか原住民のもたらす情報は実にあやふやで、肝心の日本降伏という事実についてははっきりとわからず推測するばかり。
『あれだけ激しく戦った日米が、数年の間にそんな友好的になるわけがない。万一、日本が敗れたとすれば戦の終わることは考えられる。だが当時、敵アメリカが「地球上より日本を抹殺する」と宣言したことを思えば、敗れて日本国の存在は到底考えられぬ。恐らく日本の名はすでに失われているはずだ。天皇陛下が健在でおられるなどとは夢にもあり得ないことだ。何から何まで私たちの常識では考えられぬことばかりである。』
『さて、この情報を聞いて私たちの心は穏やかではいられなかった。それからの毎日は、日本の勝敗に自分の憶測も加えて議論百出、しかし根拠が正確でない上に、敗戦と信じるにはあまりにも空恐ろしく、強いて不安の影を押さえ、「彼らの話は信用するに足らず、私たちは依然、従来の信念に生きよう」との意見に落ちついてしまった。だが、やはりこの件があってからは心の隅に宿った暗い影は拭うことはできなかった。』
冒頭の引用文からも、原住民によってもたらされる数々の情報から著者たちもうすうすは真相に気づきながら信じたくないという気持で押さえ込んでいたことがうかがえます。これは自分たちの存在理由がなくなればもはや生きてはいけないことを敏感に感じ取っていたからだと考えれば、少なくとも現代の我々にとっては納得できます。しかし、多くの将兵の手記にある「日本が負ければ日本という国家はなくなるはずだ」という思いもまた間違いなく当時の真実だったのでしょう。

最終的に、著者たちの存在は原住民同士の仲違いに発した密告によりオランダ当局に発覚してしまいます。密林での10年の潜伏生活に疲れ果てていた著者たちは運命を甘受することを決意。しかし、やってきた官憲代表の態度は予想とは全く異なるものでした。
『彼はまず自己紹介をした後、じっと宿舎に目を移し、木の皮の毛布、私たちの服装などを次々と観察していたが、やがて一番に発した言葉は「ヤサン」(お気の毒に)だった。こうした私たちの生活に驚異の目を見張ると共に、これがかつての日本軍人とは、想像もできないみじめな環境に、彼も同情の念を禁じ得なかったのだろう。』
こうしてついに著者たちは密林生活に終止符を打ち、オランダ当局に拘留されることになります。しかしこれでよかったよかったで終わりではありません。10年もの潜伏生活を経た著者らにとっては、日本敗戦の事実を受け止め祖国帰還を素直に喜ぶには相応の紆余曲折が必要だったのです。
『最後に語を改めて、「君たちは日本に帰るか?」と尋ねられた。意外な言葉である。私たちの意志を聞く以上、日本に送り帰してくれるのだろうか。望むべきことではないとすでに諦めていた私たちにとっては、まさに晴天の霹靂ともいうべき言葉である。瞬間、懐かしい故国の姿が瞼に浮かんだ。だが敗戦の日本へ帰って何の喜ぶべきことがあるだろうか。虐げられた生活に一生を終わるより、許されるならば素朴な原住民を相手にでも、この地に留まったほうがどれだけ気が晴れるかもしれない。帰るべきか留まるべきか、しばし判断に迷って、じっとアルスデンの顔を見つめていた。』
『こうしてラジオを聞き、また人々の話を聞いて、私たちの頭の中には次第に新しい日本の姿が形づくられていった。敗戦国とはいえ、日本は今敵の圧迫下を逃れ、完全に独立国として新しき活動を始めようとしている。敗戦の報を聞いて私たちが想像した日本とは、比較にもならぬ現在の姿なのだ。一時、絶望の淵に立たされていた私たちも、あの感激の君が代を聞き、今新しき祖国の実情を知って、今まで忘れられていた人生への希望が湧き上がってきた。』
『しかし最近、内地の状況も次第に判り、帰還の日も近づくにつれて私たちの心には大きな不安が芽生えてきた。それは人の世を離れて送った十年の空白生活である。現在の日本は思想その他において昔の影も留めぬほど目まぐるしい変わり方をしている。その日本に旧思想のまま、そして十年の空白を持った私たちが帰って、果たしてその生活になれ、生きる道を求めて行けるだろうか。何もかもすべて新しく再出発だ。まだまだ人生は長いのだと思いつつも、やはり将来を考えると何かしら手放しで生還を喜べぬものがあった。』
残念なことに、本書は遺骨収集船で日本上陸を果たしたところで幕を閉じます。その後の著者の生活はわずかな経歴からしかうかがうことはできませんが、小野田さんと同様な苦労をされたことは容易に想像できるでしょう。


<行間を読め!>

序盤は文章に力が入りすぎて多少感情移入しにくいものの、エピソードごとに時系列で書かれているので読みやすく、読み物として文句なく面白い内容であることは間違いありません。重点が戦後の潜伏生活にあるので戦記としては異色ですが、漂流ものやサバイバルものが好きなら迷わず一読をオススメします。

ところで読了して不思議だったのは、10年も苦難を共にした4人の戦友に関する人物描写があまりにも少ないことです。特に集団生活には当然必要だったはずの上下関係や互いの人間関係のありようがほとんど描かれていないのも気になりました。篭城を決めたときから兵士としての階級は捨て、人間として全てを平等にしたと書かれてはいますが、原住民から呼ばれる尊称が微妙に異なることからみても階級に相当するような役割分担はあったのでしょう。

また、これだけの文章量を書いているにも関わらず著者本人の人物像がもうひとつ明確にならないのも不思議です。著者は小学校卒業直後に入営し、戦闘部隊ではないものの下士官最高位の曹長として現役バリバリの兵士だったはずで、同行の上官と軋轢があったことなどはほのめかされていますが、直接的な性格描写はほとんど見当たりません。ただ生活の計画性や原住民への接し方からみると、部下の面倒見がよく人情味に溢れた人柄なのでしょう。

まあこのへんは文章技術の問題とともに、4人とも存命していたこと、遺族への配慮、執筆時期が帰還直後で日本の言論状況を把握しきれていなかったことなども影響していると思いますが、本書には意識して書かれなかった部分が少なからずあるという印象を受けました。そうしたことを織り込みながら読むと、より一層感情移入して面白く読めるのではないかと思います。

ややキャッチーすぎるタイトルですが、ある意味で敵弾に斃れるよりも生きのびた方がよほど苛酷であったかもしれないことがよくわかる良書です。
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