433-Gimme Shelter
Posted: 2006.Jul.10(Mon) 16:29
Enhanced対応日本軍シナリオ第4弾。チハ中隊で英印軍の縦隊を踏み潰せ!
プレイバランスに難アリか?VHの種類や配置はこれでいいのか?作者も不安材料一杯なので、ぜひともアドバイスください!
06.07.20 バランス修正しました。今度はちゃんとDV取れます。
06.08.01 英軍部隊購入からやり直し!VH得点も変更しました。
***************
Gimme Shelter
日本 vs イギリス 遭遇戦
英領マレー、アースン
1941年12月11日1830時
ターン:7、有効視界:4
シナリオ規模:中隊+
難易度:中
推定プレイ時間:〜1時間
SPWAW Enhanced 対応
デザイン:Nor
アドバイザー:Sato, Mau fox, IBTYRONE, Sufiy
注:日本軍プレイ推奨。"C&C"オフでプレイしてください。
上陸初日に70kmを突破した捜索第5連隊は、翌9日、河村参郎少将率いる第9旅団の指揮下に入った。旅団命令で再び前進を開始した連隊は、10日には早くも国境を突破した。一気に国境を越えた連隊の士気は天をついたが、情報によると、英軍はチャンルン以南のジットラ付近に大規模な堅陣を構えているようだった。
同日、軍参謀・辻正信中佐が戦車1個中隊、山砲1個中隊、工兵1個小隊などを引き連れて国境付近で待機中の連隊に合流し、新たに「佐伯挺身隊」としてジットラ陣地への突進を命じた。
佐伯挺身隊の兵力は581名。近接戦闘に備えて、戦車には2名ずつの車外員(予備乗員)を乗せていた。10日夜、出発にあたって挺身隊長・佐伯静夫中佐は次のように訓示した。「今後の突進にあたっては、一車が止まれば一車を捨て、二車が止まれば二車を捨て、友軍であろうが敵であろうが乗り越え踏み越え、突進ができなくなるまでただ突進せよ。側射や背射を受けても留まって応戦することを許さない。特に装甲のない部隊は、大きな損害を受けることも覚悟し、ただ突進することによってのみ危急を乗り越えうるものと心得よ。側背に残った敵は、すべて突進を終わり、行き着くところまで行き着いた後処理すれば良し。」
12月11日午前11時30分、歩兵部隊がチャンルン北端陣地に攻撃を開始した。まもなく猛烈なスコールを合図に戦車中隊が前進を開始。歩兵を超越してチャンルン村落を通過し、一気に橋梁を突破しようとした時、一瞬早く橋梁が爆破された。午後6時30分、橋梁修理が完了し、挺身隊は激しいスコールの中再び前進を開始した。約5km前進したアースン付近で、先頭の戦車が道路上に数十輌の敵車輌が放置されているのを発見した。スコールを避けるため、英印軍はゴム林の中で雨宿りをしていたのだ。
【背景】
「戦というものは走ることだ。攻めるときも走る、退くときも走る。走れなくなったらそれが最期だ」−映画『七人の侍』
「まったく、私たちの戦争は走ることだけでしたよ」−佐伯静夫 元大佐
日本軍が東南アジア進攻を検討し始めたのは1940年の夏だった。目標は、マレー・シンガポールとフィリピンを抑えて東南アジアから米英を駆逐し、蘭印の石油地帯を確保することだった。参謀本部は国武輝人少佐にマレー作戦の研究を命じたが、少佐が受け取った資料は200万分の1の地図と旅行者用ガイドブックだけだった。当時の陸軍には、マレー半島について知っているものは皆無だったのだ。国武少佐は翌年1月から3月まで、マレー半島を現地調査した。
1941年1月、マレー作戦を含む南方作戦を研究する「台湾軍研究部」が創設された。研究課題は、編成・装備・兵要地誌・占領政策など多岐にわたった。2月になると、2週間にわたって参謀演習が実施された。それは九州を敵国と想定し、台湾を基地とする部隊が鹿児島に上陸して「首都」久留米を攻略するというものだった。そして3月末、これまでの研究成果をまとめ、「これだけ読めば戦は勝てる」というパンフレットが完成し、南方派遣予定の全部隊に配布された。
同時に、参加部隊の準備も整えられていた。1940年12月、マレー作戦の主力となる第5師団は大本営直属とされ、輸送手段の馬匹を全廃して、トラック・オートバイ・自転車を配備して徹底的な自動車化がはかられた。1941年4月、第5師団を中心として陸海軍合同で上陸演習が行われた。ついで、第5師団は寧波攻略作戦に参加し、実戦でも上陸をおこなった。
最後の演習は6月に行われた。歩兵1個大隊と砲兵1個中隊が参加したこの演習は、マレー半島縦断距離とほぼ同じ1000キロの外周を持つ海南島で行われた。この演習では、炎暑・スコール・ジャングルなど南方特有の要素を考慮した進軍方法が検討された。
こうして完成された南方作戦計画の中で、最初に行われるマレー作戦は最重要とされた。マレー作戦を成功させる要点は、奇襲と突進だった。タイ−マレー国境からシンガポールまでは約1100キロ。それを縦貫する道路は1本しかなく、その間には250もの橋梁があった。英軍は必ず道路や橋梁を爆破して前進を遅らせようとするだろう。従って日本軍先鋒部隊は、英軍部隊に戦闘態勢を整える暇を与えないように、がむしゃらに前進し続けなければならなかったのだ。
【シナリオについて】
日本軍側は、PPTのVHを押さえながらできる限り速やかに前進し、英軍より先にマップ南端近くにある中立VHを踏むことが目標です。佐伯隊長の訓示を守ることが勝利につながるでしょう。一方英軍側は、日本軍の突進をできる限り遅らせつつ、なるべく多くの部隊をマップ南端の脱出ヘックスから逃がして下さい。どちらでプレイするにしても、スピードが重要です。
【結末】
スコールは弱まり、周囲は明るさを取り戻した。ゴム林の中に立ち並んだ天幕では人影が動き、路上には装甲車・トラック・各種火砲が放置されていた。まず、先頭の九七式中戦車の主砲が道路上に放置された対戦車砲列に火を噴き、続いて全戦車砲がゴム林の天幕に榴弾射撃を加えた。
この急襲に英印軍は大混乱に陥った。実戦経験の少ない兵士たちは、放置された車輌や砲を残したまま、ゴム林の中を右往左往するだけだった。戦車中隊は、戦車砲を振り回して路上の車輌を破壊炎上させ、逃げまどう敵兵に車上から手榴弾や拳銃弾を浴びせながら、退却する敵車輌と混じり合って突進を続けた。
戦車中隊が約10kmを突破して敵縦隊の南端に達したのは、攻撃開始からわずか20分後だった。アースンに遺棄されたものは、自動車100両、装甲車40両、榴弾砲・速射砲・迫撃砲など30門以上、その他兵器弾薬多数であった。
日本綱豹司令部
http://headquarters.s4.xrea.com/phpBB3/
プレイバランスに難アリか?VHの種類や配置はこれでいいのか?作者も不安材料一杯なので、ぜひともアドバイスください!
06.07.20 バランス修正しました。今度はちゃんとDV取れます。
06.08.01 英軍部隊購入からやり直し!VH得点も変更しました。
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Gimme Shelter
日本 vs イギリス 遭遇戦
英領マレー、アースン
1941年12月11日1830時
ターン:7、有効視界:4
シナリオ規模:中隊+
難易度:中
推定プレイ時間:〜1時間
SPWAW Enhanced 対応
デザイン:Nor
アドバイザー:Sato, Mau fox, IBTYRONE, Sufiy
注:日本軍プレイ推奨。"C&C"オフでプレイしてください。
上陸初日に70kmを突破した捜索第5連隊は、翌9日、河村参郎少将率いる第9旅団の指揮下に入った。旅団命令で再び前進を開始した連隊は、10日には早くも国境を突破した。一気に国境を越えた連隊の士気は天をついたが、情報によると、英軍はチャンルン以南のジットラ付近に大規模な堅陣を構えているようだった。
同日、軍参謀・辻正信中佐が戦車1個中隊、山砲1個中隊、工兵1個小隊などを引き連れて国境付近で待機中の連隊に合流し、新たに「佐伯挺身隊」としてジットラ陣地への突進を命じた。
佐伯挺身隊の兵力は581名。近接戦闘に備えて、戦車には2名ずつの車外員(予備乗員)を乗せていた。10日夜、出発にあたって挺身隊長・佐伯静夫中佐は次のように訓示した。「今後の突進にあたっては、一車が止まれば一車を捨て、二車が止まれば二車を捨て、友軍であろうが敵であろうが乗り越え踏み越え、突進ができなくなるまでただ突進せよ。側射や背射を受けても留まって応戦することを許さない。特に装甲のない部隊は、大きな損害を受けることも覚悟し、ただ突進することによってのみ危急を乗り越えうるものと心得よ。側背に残った敵は、すべて突進を終わり、行き着くところまで行き着いた後処理すれば良し。」
12月11日午前11時30分、歩兵部隊がチャンルン北端陣地に攻撃を開始した。まもなく猛烈なスコールを合図に戦車中隊が前進を開始。歩兵を超越してチャンルン村落を通過し、一気に橋梁を突破しようとした時、一瞬早く橋梁が爆破された。午後6時30分、橋梁修理が完了し、挺身隊は激しいスコールの中再び前進を開始した。約5km前進したアースン付近で、先頭の戦車が道路上に数十輌の敵車輌が放置されているのを発見した。スコールを避けるため、英印軍はゴム林の中で雨宿りをしていたのだ。
【背景】
「戦というものは走ることだ。攻めるときも走る、退くときも走る。走れなくなったらそれが最期だ」−映画『七人の侍』
「まったく、私たちの戦争は走ることだけでしたよ」−佐伯静夫 元大佐
日本軍が東南アジア進攻を検討し始めたのは1940年の夏だった。目標は、マレー・シンガポールとフィリピンを抑えて東南アジアから米英を駆逐し、蘭印の石油地帯を確保することだった。参謀本部は国武輝人少佐にマレー作戦の研究を命じたが、少佐が受け取った資料は200万分の1の地図と旅行者用ガイドブックだけだった。当時の陸軍には、マレー半島について知っているものは皆無だったのだ。国武少佐は翌年1月から3月まで、マレー半島を現地調査した。
1941年1月、マレー作戦を含む南方作戦を研究する「台湾軍研究部」が創設された。研究課題は、編成・装備・兵要地誌・占領政策など多岐にわたった。2月になると、2週間にわたって参謀演習が実施された。それは九州を敵国と想定し、台湾を基地とする部隊が鹿児島に上陸して「首都」久留米を攻略するというものだった。そして3月末、これまでの研究成果をまとめ、「これだけ読めば戦は勝てる」というパンフレットが完成し、南方派遣予定の全部隊に配布された。
同時に、参加部隊の準備も整えられていた。1940年12月、マレー作戦の主力となる第5師団は大本営直属とされ、輸送手段の馬匹を全廃して、トラック・オートバイ・自転車を配備して徹底的な自動車化がはかられた。1941年4月、第5師団を中心として陸海軍合同で上陸演習が行われた。ついで、第5師団は寧波攻略作戦に参加し、実戦でも上陸をおこなった。
最後の演習は6月に行われた。歩兵1個大隊と砲兵1個中隊が参加したこの演習は、マレー半島縦断距離とほぼ同じ1000キロの外周を持つ海南島で行われた。この演習では、炎暑・スコール・ジャングルなど南方特有の要素を考慮した進軍方法が検討された。
こうして完成された南方作戦計画の中で、最初に行われるマレー作戦は最重要とされた。マレー作戦を成功させる要点は、奇襲と突進だった。タイ−マレー国境からシンガポールまでは約1100キロ。それを縦貫する道路は1本しかなく、その間には250もの橋梁があった。英軍は必ず道路や橋梁を爆破して前進を遅らせようとするだろう。従って日本軍先鋒部隊は、英軍部隊に戦闘態勢を整える暇を与えないように、がむしゃらに前進し続けなければならなかったのだ。
【シナリオについて】
日本軍側は、PPTのVHを押さえながらできる限り速やかに前進し、英軍より先にマップ南端近くにある中立VHを踏むことが目標です。佐伯隊長の訓示を守ることが勝利につながるでしょう。一方英軍側は、日本軍の突進をできる限り遅らせつつ、なるべく多くの部隊をマップ南端の脱出ヘックスから逃がして下さい。どちらでプレイするにしても、スピードが重要です。
【結末】
スコールは弱まり、周囲は明るさを取り戻した。ゴム林の中に立ち並んだ天幕では人影が動き、路上には装甲車・トラック・各種火砲が放置されていた。まず、先頭の九七式中戦車の主砲が道路上に放置された対戦車砲列に火を噴き、続いて全戦車砲がゴム林の天幕に榴弾射撃を加えた。
この急襲に英印軍は大混乱に陥った。実戦経験の少ない兵士たちは、放置された車輌や砲を残したまま、ゴム林の中を右往左往するだけだった。戦車中隊は、戦車砲を振り回して路上の車輌を破壊炎上させ、逃げまどう敵兵に車上から手榴弾や拳銃弾を浴びせながら、退却する敵車輌と混じり合って突進を続けた。
戦車中隊が約10kmを突破して敵縦隊の南端に達したのは、攻撃開始からわずか20分後だった。アースンに遺棄されたものは、自動車100両、装甲車40両、榴弾砲・速射砲・迫撃砲など30門以上、その他兵器弾薬多数であった。
日本綱豹司令部
http://headquarters.s4.xrea.com/phpBB3/