432-Spearhead!
Posted: 2006.Jul.10(Mon) 16:25
Enhanced対応日本軍シナリオ第三弾。銀輪部隊が登場します。これも内容に変更があるので、プレイテスト求む!
06.07.20 修正シナリオアップ。
06.07.29 テキスト一部修正。テストプレイ募集終了。最終版アップ。
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先鋒!
日本 Advance vs イギリス Delay
マレー半島、タイ領サダオ
1941年12月8日2130時
ターン:10、有効視界:8
シナリオ規模:中隊+
難易度:中
推定プレイ時間:〜2時間
SPWAW Enhanced 対応
デザイン:Nor
テスト:サト、Mau Fox、Sufiy
注:日本軍側でのみプレイしてください。"C&C"オンでもプレイ可。
1941年12月8日払暁、タイ領シンゴラに上陸した第5師団主力は即座に前進を開始した。先頭にたったのは佐伯静夫中佐の率いる捜索第5連隊だった。捜索連隊は常に攻撃の先頭に立って敵情を偵察し、必要なら敵と一戦を交えて後続部隊のために橋頭堡を確保する任務を与えられていた。
最初の難関はタイ-マレー国境地帯の確保だった。英軍が守備を固める前に国境を突破しなければならない。スピードが何より重要だった。佐伯連隊長は車輌類の揚陸を待たず、徒歩2個中隊と自転車部隊50名の総計150名だけで前進を開始した。
午後2時にはハジャイを確保し、列車2・自動車50輌などを押収し、後続部隊を合流させつつ国境を目指して前進を続けた。夕方、偵察中の海軍機から「敵機械化部隊が国境付近を北上中」との報告をうけ、その後現地警察からその敵がサダオに停止したとの情報を得た。佐伯連隊長は交戦を決意し、サダオに向かった。
【背景(イギリスの視点から)】
1933年4月、日本が国際連盟から脱退したのを受けて、英内閣は即座にシンガポール防衛強化策を取ることを決定した。この時以来、イギリスはシンガポール防衛に本腰で取り組むようになった。1937年、現地を視察したマレー軍司令官ウィリアム・ドビー少将は、10月から3月にかけてのモンスーンの時期には、敵はタイ領東岸に上陸拠点を確保可能だと報告した。彼は、タイ領のシンゴラおよびパタニ、英領マレーのコタバルで上陸可能だろうと予測した。彼は直ちに大規模な増援部隊を派遣するよう要請した。今日では、彼の予測が正しかったことが明らかになっているが、当時その要請は相手にされなかった。
1940年9月、日本が仏領インドシナ北部に進駐したため、シンガポールへの脅威はさらに高まった。日本は侵攻部隊を本土から輸送する必要はなくなり、マレー半島のすぐ傍に戦力を集中できるようになったため、それまでのシンガポール防衛計画は根底から覆されることになったのだ。
1940年8月、上海から英軍2個大隊が、10月と11月には、第11インド師団(マレー・ライオン少将)の第6・8インド歩兵旅団がマレー半島に到着した。これ以降、英軍増援部隊は続々と到着した。最終的に、1941年12月には、マレー半島の英軍戦力は32個大隊を含む76,300人以上になっていたが、戦車部隊は全く存在しなかった。
1941年5月、これらの防衛戦力はマレー全域に配備された。日本軍の主力はタイ領シンゴラに上陸すると予想されていたので、タイに続く主要道路に防衛体制を敷くことが決定された。最終的に、防衛地点としてジットラの小村前面が選ばれた。ジットラはペルリス州に続く街道との交差点にあたり、タイ国境から18マイル南方に位置していた。
その一方で、英軍は「マタドール(闘牛士)」作戦として知られる積極的な作戦計画も発展させていた。この計画の目的は、日本軍より先にタイ南部に侵攻することだった。1941年8月、ごくわずかな英軍将校が平服でタイ南部を偵察すべしとの許可が下りた。こうして、最高位の将校を含めた総勢30人の将校が、タイに潜入できるようになった。英軍将校は、おそらく同様の目的で潜入しているであろう日本軍将校と頻繁に出くわし、時には同宿することさえあった。
軍事的に見ると、タイ南部、あるいはその一部を占領することの利点は計り知れなかった。英軍は日本軍を無抵抗で上陸させる代わりに海岸で対峙することができ、英空軍は敵に飛行場を利用させることなくさらなる飛行場を確保できる。そうなれば、マラッカ海峡における英軍の海上連絡線を遮断される心配もなくなるはずだった。しかし、この作戦が貧弱な戦力で実行できるかどうかは疑問だった。この作戦に使用できるのは、マレー・ライオン少将の第11インド歩兵師団だけであり、この師団は同時にジットラを守ることになっていたのだ。こうして第11インド師団は、進撃するか国境で踏みとどまって戦うかという、二重の任務に備えることになった。
12月5日、日本軍侵攻の脅威が現実的なものになると、ロンドンは極東英軍総司令官にマタドール作戦の発動権限を委ねた。しかし、ついにマタドール作戦が発動されることはなかった。タイ領への先制機動を含む同作戦の発動は時期尚早だと判断されたのだ。
1941年12月8日、いよいよ太平洋の戦いが始まった。マレー半島西部では第11インド師団の偵察部隊が、タイ軍と散発的に戦闘しながら国境を越え、日本軍と交戦した。はるか南東部でも、クロー州を拠点とする英軍部隊が国境を越えてタイ軍と交戦した(このためクローコル作戦と言う)。両部隊ともタイ領内で拠点を確保したが、11日までには撤退する羽目になった。
【シナリオについて】
ターン制限が厳しく、ターン式ポイント制のVHが多くあります。捜索連隊の特徴をいかしてできるだけ早くVHを占領してください。主戦力となる九七式軽装甲車には2つの武装タイプがあります。小・中隊長車は37mm砲を、それ以外は7.7mm機銃を装備しています。有効に使い分けて下さい。また、銀輪(自転車歩兵)部隊も登場します。足の速さをいかして迂回攻撃をしかけることも可能です。
【結末】
午後5時30分、第8パンジャブ連隊第1大隊の歩兵2個中隊を中心とする英印軍が国境を越えてタイ領に前進した。この部隊の目的は、シンゴラから南下してくる日本軍の前進を少しでも遅らせることだった。午後6時30分、部隊は国境の10キロ北方にある村サダオに入り、迎撃体勢を整えた。
午後9時30分、英印軍は北方から南下してくる車輌のヘッドライトを確認した。それは軽戦車を先頭に前進してくる捜索第5連隊だった。突然、先頭の戦車2輌が待ちかまえていた対戦車砲に破壊された。しかし、後続のトラックに乗っていた日本軍歩兵は直ちに散開し、道路沿いのジャングルに入って猛訓練を重ねた夜襲を開始した。
佐伯連隊がサダオを占領したのは午後11時30分だった。こうして、捜索第5連隊は上陸初日で約70キロを突破したのだった。
日本綱豹司令部
http://headquarters.s4.xrea.com/phpBB3/
06.07.20 修正シナリオアップ。
06.07.29 テキスト一部修正。テストプレイ募集終了。最終版アップ。
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先鋒!
日本 Advance vs イギリス Delay
マレー半島、タイ領サダオ
1941年12月8日2130時
ターン:10、有効視界:8
シナリオ規模:中隊+
難易度:中
推定プレイ時間:〜2時間
SPWAW Enhanced 対応
デザイン:Nor
テスト:サト、Mau Fox、Sufiy
注:日本軍側でのみプレイしてください。"C&C"オンでもプレイ可。
1941年12月8日払暁、タイ領シンゴラに上陸した第5師団主力は即座に前進を開始した。先頭にたったのは佐伯静夫中佐の率いる捜索第5連隊だった。捜索連隊は常に攻撃の先頭に立って敵情を偵察し、必要なら敵と一戦を交えて後続部隊のために橋頭堡を確保する任務を与えられていた。
最初の難関はタイ-マレー国境地帯の確保だった。英軍が守備を固める前に国境を突破しなければならない。スピードが何より重要だった。佐伯連隊長は車輌類の揚陸を待たず、徒歩2個中隊と自転車部隊50名の総計150名だけで前進を開始した。
午後2時にはハジャイを確保し、列車2・自動車50輌などを押収し、後続部隊を合流させつつ国境を目指して前進を続けた。夕方、偵察中の海軍機から「敵機械化部隊が国境付近を北上中」との報告をうけ、その後現地警察からその敵がサダオに停止したとの情報を得た。佐伯連隊長は交戦を決意し、サダオに向かった。
【背景(イギリスの視点から)】
1933年4月、日本が国際連盟から脱退したのを受けて、英内閣は即座にシンガポール防衛強化策を取ることを決定した。この時以来、イギリスはシンガポール防衛に本腰で取り組むようになった。1937年、現地を視察したマレー軍司令官ウィリアム・ドビー少将は、10月から3月にかけてのモンスーンの時期には、敵はタイ領東岸に上陸拠点を確保可能だと報告した。彼は、タイ領のシンゴラおよびパタニ、英領マレーのコタバルで上陸可能だろうと予測した。彼は直ちに大規模な増援部隊を派遣するよう要請した。今日では、彼の予測が正しかったことが明らかになっているが、当時その要請は相手にされなかった。
1940年9月、日本が仏領インドシナ北部に進駐したため、シンガポールへの脅威はさらに高まった。日本は侵攻部隊を本土から輸送する必要はなくなり、マレー半島のすぐ傍に戦力を集中できるようになったため、それまでのシンガポール防衛計画は根底から覆されることになったのだ。
1940年8月、上海から英軍2個大隊が、10月と11月には、第11インド師団(マレー・ライオン少将)の第6・8インド歩兵旅団がマレー半島に到着した。これ以降、英軍増援部隊は続々と到着した。最終的に、1941年12月には、マレー半島の英軍戦力は32個大隊を含む76,300人以上になっていたが、戦車部隊は全く存在しなかった。
1941年5月、これらの防衛戦力はマレー全域に配備された。日本軍の主力はタイ領シンゴラに上陸すると予想されていたので、タイに続く主要道路に防衛体制を敷くことが決定された。最終的に、防衛地点としてジットラの小村前面が選ばれた。ジットラはペルリス州に続く街道との交差点にあたり、タイ国境から18マイル南方に位置していた。
その一方で、英軍は「マタドール(闘牛士)」作戦として知られる積極的な作戦計画も発展させていた。この計画の目的は、日本軍より先にタイ南部に侵攻することだった。1941年8月、ごくわずかな英軍将校が平服でタイ南部を偵察すべしとの許可が下りた。こうして、最高位の将校を含めた総勢30人の将校が、タイに潜入できるようになった。英軍将校は、おそらく同様の目的で潜入しているであろう日本軍将校と頻繁に出くわし、時には同宿することさえあった。
軍事的に見ると、タイ南部、あるいはその一部を占領することの利点は計り知れなかった。英軍は日本軍を無抵抗で上陸させる代わりに海岸で対峙することができ、英空軍は敵に飛行場を利用させることなくさらなる飛行場を確保できる。そうなれば、マラッカ海峡における英軍の海上連絡線を遮断される心配もなくなるはずだった。しかし、この作戦が貧弱な戦力で実行できるかどうかは疑問だった。この作戦に使用できるのは、マレー・ライオン少将の第11インド歩兵師団だけであり、この師団は同時にジットラを守ることになっていたのだ。こうして第11インド師団は、進撃するか国境で踏みとどまって戦うかという、二重の任務に備えることになった。
12月5日、日本軍侵攻の脅威が現実的なものになると、ロンドンは極東英軍総司令官にマタドール作戦の発動権限を委ねた。しかし、ついにマタドール作戦が発動されることはなかった。タイ領への先制機動を含む同作戦の発動は時期尚早だと判断されたのだ。
1941年12月8日、いよいよ太平洋の戦いが始まった。マレー半島西部では第11インド師団の偵察部隊が、タイ軍と散発的に戦闘しながら国境を越え、日本軍と交戦した。はるか南東部でも、クロー州を拠点とする英軍部隊が国境を越えてタイ軍と交戦した(このためクローコル作戦と言う)。両部隊ともタイ領内で拠点を確保したが、11日までには撤退する羽目になった。
【シナリオについて】
ターン制限が厳しく、ターン式ポイント制のVHが多くあります。捜索連隊の特徴をいかしてできるだけ早くVHを占領してください。主戦力となる九七式軽装甲車には2つの武装タイプがあります。小・中隊長車は37mm砲を、それ以外は7.7mm機銃を装備しています。有効に使い分けて下さい。また、銀輪(自転車歩兵)部隊も登場します。足の速さをいかして迂回攻撃をしかけることも可能です。
【結末】
午後5時30分、第8パンジャブ連隊第1大隊の歩兵2個中隊を中心とする英印軍が国境を越えてタイ領に前進した。この部隊の目的は、シンゴラから南下してくる日本軍の前進を少しでも遅らせることだった。午後6時30分、部隊は国境の10キロ北方にある村サダオに入り、迎撃体勢を整えた。
午後9時30分、英印軍は北方から南下してくる車輌のヘッドライトを確認した。それは軽戦車を先頭に前進してくる捜索第5連隊だった。突然、先頭の戦車2輌が待ちかまえていた対戦車砲に破壊された。しかし、後続のトラックに乗っていた日本軍歩兵は直ちに散開し、道路沿いのジャングルに入って猛訓練を重ねた夜襲を開始した。
佐伯連隊がサダオを占領したのは午後11時30分だった。こうして、捜索第5連隊は上陸初日で約70キロを突破したのだった。
日本綱豹司令部
http://headquarters.s4.xrea.com/phpBB3/